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煙草と統計

煙草と肺がん死のリスクに関する専門的なデータは専門の論文に任せるとして、ありがちな会話にツッコむ。

A:煙草を吸う人は統計的に肺がんになるリスクが高いらしいですね。
B:そんなことないですよ。うちの父はヘビースモーカーですが、90歳超えて元気ですよ。
A:あーそうですか。じゃあそうなんでしょうね。

統計の考え方は、多分、大雑把に言うと、多くの様々なタイプの人、ここでは、煙草を吸いまくっても元気で肺がんになる人々も、タバコを吸いまくって肺がんになる人々も、煙草を吸わなくて肺がんで死なない人々も、煙草を吸わなくても肺がんなる人々もいること等を考慮して、数多くの人のデータをもとに、データ全体の大まかな傾向を見るのだろうから、ヘビースモーカーで肺がんにならない人がいること自体は肯定している。様々なタイプの人の、「十分」(人類全体は不可能)な数のデータを集めた結果、「優位」な偏りが見られたから、ということなのだろう(多分、しらんけど。というのは、「十分」とか「優位」の部分が専門的な議論のホットなところになったするだろうし)。

だから、Bの父が90歳超のヘビースモーカーだったとして、統計とは原理的に矛盾しない(Bの父が論文のサンプルに含まれていようといまいと)。Bが嘘をいっていないかぎり、Bの父がそういう人である、という事実自体は否定できない(統計はそれを原理的に否定し得ない、というか、むしろそういう人がいるだろうから統計とろういう動機になるのである)、そういう意味で「あーそうですか。じゃあそうなんでしょうね」なのである。

煙草は一撃必殺の銃弾ではないのだし、高齢化社会の日本、90歳超のヘビースモーカーは珍しくないだろう。むしろそういう社会で90歳超のサンプルを重点的に調査してみた統計結果もあるのかもしれない。しらんけど。

くどくなるが、「Bの父親」という個人が「90歳超」であることと「ヘビースモーカー」であるという事実が真実として、Aの言うところの「統計」がもし適切なものだっとしても、矛盾はない。そこから、Bの父親に、たとえば煙草の肺がんリスクを軽減させるような習慣があるのかも、とか話がつながるかもしれない。それには、Bの父親という個人の詳しい観察も含めなければならないだろうが、Bの父親とは一面識もないAは、ここで興味なくなるだろう。他愛のない世間話とは、「共通の知人」の話で盛り上がるものなのだ。

「煙草を吸うと肺がんになる」という直接的な因果関係は、上記のような疫学的な統計だけからは、証明できない。無作為に選抜された十分な数の健康な人に、煙草を吸わせて、同じように集められた煙草を吸わせない人々と比べて経過を観察するような社会実験をするとか、同時にその対象の人々の肺の細胞に煙草を吹きかけるラボ実験をするとか、そういう人為的操作を加えた実験が必要である(といっても、そこでもデータ整理に統計をとるだろう。統計をとる人や実験をする人は、統計の背景にある数学や哲学をある程度熟知しないと、統計の専門家の助言とかも難しいのかもしれない。しらんけど)。ここでも完璧な実験とかは無理なのかもしれないし、サンプルの集め方から実験の手法に至るまで喧々諤々の議論が発生しそう。

肺がん発生のメカニズム、分子レベルでの肺の細胞(の一部とか)と煙草の成分(の一部)の作用とかのからくりを、数字を使わないで説明できれば、法則的な「煙草のある成分が肺の細胞をがん化させる」とかはいえるかもしれない。肺の細胞の個人差がどうなのかは知らないが、多くの人に当てはまるメカニズムを実験室で再現できるなら、「煙草を吸うと肺がんになる」因果関係証明の大きな一歩になるだろう。くどくなるが、因果関係は、how much (数字の大小)ではなく、how(どのように)、たとえば、歯車が組み合い回転が伝わる仕組み、のような「からくり」を、図や言葉や数式(いわゆる文字式)だけで説明できなければならないだろう。統計とは相性が悪い。歯車は存在し動力は伝わるが、回転が遅すぎて事実上静止しているとか(喫煙による肺がんになるが、その前に寿命が尽きることのたとえ)、そういう量的な問題は度外視するのが因果関係(或いはメカニズムの説明)である。

「ある個人が煙草を吸うと肺がんになる」かどうかは、その個人の詳細な情報と、過去のデータ(人類を対象にした統計とか、その人の親戚とか家族とかの病歴とか)を参照して、確実なことは絶対に言えないけど、程度によるけど、まあ可能性くらいは科学的根拠についていえるかもしれない。ただ、「詳細な情報」も「過去のデータ」も絶対完璧ではないだろう。科学は経験に基づく以上、「ある個人が煙草を吸うと肺がんになる」かどうかは、その個人がユニークである以上、絶対的法則的な予測はたてられない。ある個人の肺の細胞を取り出して、実験室でタバコの成分を暴露させ、その人が肺がんになりやすいかどうかを判定するようなものは考えられるかもしれない。しらんけど。

しらんけど。



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# by aqua-magna | 2023-10-08 09:58 | 駄文

掛け算の交換法則

上手に説明するために、同じ問題をずっと考える癖は、不惑といえども変わるものではないらしい。



掛け算は、掛ける順番を入れ替えても和が同じになる。

何故か?

掛け算を、そういう条件を含む演算であると定義したから。
そう考えると現実の、例えば長方形の面積を計算したり、箱単位のお菓子の総数を数える、という思考の数学モデルとして非常に便利だからそういう演算を人類の理性が発見或いは発明した。

底辺×高さ=面積
箱の容量×箱の個数=菓子の個数

「答え」である面積や総数が変わらない限り、例えば、土地の制約なしにビルの形を自由に考えてよいかとか、菓子箱の容量をフレキシブルに選べるか、とかそういうことを考えていない人は、「答え」が同じだから、「現実」問題として、計算過程で掛ける順番を考慮しないで良い、と考える。そんな世界もないし、そんな人はいないことは、誰でも知っている。

現実には、ビルを設計するためには、建設する土地の形状や建築基準法やその他規則は変更できなかったり、菓子箱のサイズは10個入りとか6個入とかで、箱単位で買おうとすると結構融通が効かない。掛け算の前後の数は、むやみやたらに交換できないのだ。

「答え」にたどり着くため以外の情報を、無意識に捨象してしまう「現実」主義者は、なぜ算数や数学だけに、特殊な考え方を要求するのか?そっちのほうが不思議にならないのか?その無意識の捨象をえぐり出してしまうのが算数や数学の勉強の醍醐味の一つではないか?

そして、一見掛け算に見えるが交換できない演算、というのも非常に便利なので、高校数学の最後の方に出てくる「行列の掛け算」とか量子力学の「生成消滅演算子」とか、そういうものに興味を持ったときのためにも、交換法則ができる場合とできない場合と、「掛け算」という演算と、交換法則がいかに高度に抽象的であるかを、「算数」の段階でしっかり叩き込んだほうが良い。

交換法則は、一般には成り立たない。
交換法則の成り立つ掛け算は、実は非常に高度かつ抽象的な思考モデルで、そして、それ故に非常に便利な、人類の理性の成果である

と。




# by aqua-magna | 2023-09-23 09:26 | 駄文

環境意識の高い人が地球環境を壊すか

毎度個人的娯楽的一時的妄想です。本気にしないように。同じようなことばかりぐるぐるを考えていると整理したり吐き出したりしたくなりますよね。読んでいる人は粗いない零細ブログだけど、書いている人にはそれなりに存在意義があるのです。

環境意識の高い人、というのは、自然とか世界とかに幅広い興味関心がある人が多いことだろう。そういう人は学習意欲が高く学ぶ力もあり学校の成績も良かったのではあるまいか?そして、そのような人を育む環境もまた経済的にゆとりがあることが多いかもしれない。例外があることは前提として統計をとったりすると、パラメータの取り方によっては、環境意識の高さと学力と経済力の相関は、あるかもしれない。知らんけど。

経済的にゆとりがあると、経済に参加する度合いが大きいだろう。

住宅価格や家賃や地価のエリアに住まうことが多いかもしれない。住居を買ったり借りたりしてんでいるだけで住宅ローンを扱う銀行等の金融業者や土建業者や不動産開発業者やそれらに投資したりする人々に密接に関わってしまう。そのような巨大資本から見れば一人ひとりは微々たる存在かもしれないが、それ故の責任の分散による無垢感により無敵の大衆として無意識に巨大資本の力に貢献している。直接企業で知的労働に参加している人々ならば、仕事の内容と環境意識との矛盾に苦しむかもしれないが、便利で快適な住環境の住んで休日にリラックスしている間はクリーンでグリーンな思想になるかもしれない。彼らは都市や都市近郊に住んでいるだろう。ド田舎や山奥で自給自足の生活をする教養のある経済的にゆとりのある人って、いるのだろうか?田舎や山奥で金儲けができる、ということは、都市経済と密接に連絡を取り合えるテレワーク的環境を駆使して働ける人で、環境意識の高い人と重なるイメージで良いのではないだろうか。技能と知識と経済力で都会の喧騒から離れ、田舎の環境を好みで選べる人々。知らんけど。

お金を儲けたり使ったりするということは、お金の流れに乗って、その分だけ資源やエネルギーを消費しているということであろう。

お金や知識や技術を使って自分自身や身の回りをクリーンにすることは、お金の流れに載って巡り巡って発展途上国の児童労働とか、報酬すら受け取らずに汚れてゆく自然環境があるだろう。たとえば、何気なく口に運びながら仕事しているチョコレートの原料であるカカオ豆を生産しているアフリカの子供とか、そういうところに世界が繋がっているのである。その子は学校にも行かず、したがってSDGsとか気候変動とかそういうあるいみ都市的な教養に関心をもたない大人に成長するかもしれない。

知的で所得が高いということは、その分動かすお金が大きいということである可能性があり、自給自足できない都市や都市近郊の整備された環境に暮らす生活を維持しているということは、自分の生活環境の外に負担を与え続けているということである。

環境意識の高い人と、環境に負荷をかける人が、同じ人物でする可能性がある。また、環境意識が高い人がいる環境を保つ、というのも、相当な環境負荷をかけるのではあるまいか。

# by aqua-magna | 2023-06-17 18:18 | 読書

エコ経済

都市は自給自足できない。

都市への物資やエネルギーの供給や、使用済みのゴミ排水等等あの排出は、外部に依存する。

その活動は経済活動である。

経済活動をインフラとして利用した活動は、さらなる活動に繋がる。

都市住民の生活そのもの基盤が都市の経済活動にある限り、何か活動をする毎に周囲に影響が波及する。すなわち、経済活動を通じて外部から供給し外部に捨てている。新しい活動を加えるということは、そこに未だ効率化されない流れネジ込むこと。苦労したりお金がかかったということは、経済活動を通じて世界のどこかに皺寄せがあるかもしれないこと。

グローバル化された世界、先進国の都市に住むだけで、都市の経済活動に参加したことになり、さらに高度な教養と技術を駆使した活動となれば、巻き込む経済の流れは大きく複雑だ。その活動をする人が安定した職で定収入を得て平均以上の生活水準を維持しているその状態は都市経済のインフラに根差した上に、更なる努力して築いた不自然な状態である。

先進国の都市の、余裕のある世帯の人が、仕事で余暇で、すなわち経済活動で、世界に向かってエコ活動を呼びかける、この風潮に疑問を持ってしまう。

価値観の転換が必要かもじれない。

人のあらゆる活動は何処かで必ず、経済を通じて直接間接に、善悪やエコ非エコ問わず他人の活動と繋がっている。その多くが個人の視界や想像の外にあり、予測不能である。

個人にできること。基本新しい活動を増やさず、徐々に経済活動をやめていくことが、外部への影響を減らす、原理的に可能な唯一のエコ活動である。金を稼がず消費せず、現状の経済活動を気づかない程度に段階的に衰退させてゆくこそがエコ活動の基本だ。

個人の稼ぎや消費を減らすことから始める。

そうだ、収入を下げて物価と税金を上げよう。当たり前で必要だと思いこんでいるインフラを、少しずつ取り除いてゆこう。都市住民よ、舗装を放棄し土を踏め。車を捨て足で歩め。自然に老い、病死に逆らわず山で腐れ。まずは平安京の生活を目指せ!古き良きニッポン!

冗談ですよ。

何度も違う記事で書いたことをパラフレーズしてるだけで面白くはないが、適当な言語表現を模索しているところである。

# by aqua-magna | 2023-06-16 08:15 | 駄文

京都の建物の高さ制限

毎度数字で証明しない(できない)駄文である。そういうこともあるかもね、ということで。

京都市の景観保護条例で指定地域の建物は特別な条件付きの例外を除いて一定以上は高く出来ない。したがって、京都市中心部でタワマンが林立する光景は見られない。高層住宅等が吸収できなかった住宅需要は、鉄道の利便性のある滋賀県等の周辺地域の駅前等の高層住宅や今なお造成される新興住宅地に向かうかもしれない。景観条例などないこれら周辺地域水田等では、農地は一戸建ての住宅に、江戸時代から続く古い町並みは林立するマンションに置き換えられる。まあ、もちろん、景観条例がなかったと仮定した場合の京都市の仮想的人口と、と滋賀県の人口の増加はそう簡単に直結しない。たとえば、滋賀県の人口増には外国人の流入も加味する必要があろうし、京都市の人口減には他の原因もあるだろう。しかし、京都の景観を保護するために、景観条例がなかったと仮定した場合に指定区域内で高層マンションに住んだであろう層が周辺地域の景観、たとえば古い港町や城下町の古民家を潰してたてた高層住宅や、水田を壊して作った新興住宅街に住むこともあるだろうことは否定できないだろう。

京都市内で景観を守った結果も原因の一つとなり、古き良き日本の風景をもとめて外国から観光客が押し寄せる。かれらが降り立つのは、関西国際空港であろう。関西国際空港は淡路島や和歌山県加太等の山を削ってその土砂で埋め立てて作った人工島である。当然、山を削ればその地元の歴史的景観は台無しである。京都という歴史のショーケースは輝き、太古から山を眺めて連綿と暮らしていた別の場所の景観の歴史は途絶える。関空建設の動機に京都への観光客増加への期待が含まれていなかったことは多分ないだろう(経済効果や空港の利用者数見積の計算で無視するはずはない)。京都の景観の魅力を関空建設の根拠のひとつとしたのならば、京都の景観条例は淡路島や加太の山を破壊する手助けをしたことになる。

千年の都。首都や拠点都市というのは周辺の「地方」の文化を吸い取って成長するという歴史的側面も、あるのかもしれない。都にあるのは洗練された文化のショーケース、素晴らしさは折り紙付きである。それに加えて、京都を愛でる心の目を、同時に「地方」に向けると、京都の景観を、より趣深く眺められるかもしれない。

因果は巡る。



# by aqua-magna | 2023-06-03 10:20 | 駄文