滾滾録
2024-03-20T07:37:15+09:00
aqua-magna
滾滾と湧き出る清水のように、日々の生活に潤いがありますように。
Excite Blog
君が心をくれたから
http://konkonroku.exblog.jp/33287135/
2024-03-20T07:28:24+09:00
2024-03-20T07:37:15+09:00
2024-03-20T07:28:44+09:00
aqua-magna
未分類
うーん、皆さん健脚です。
高校生カップルが東高から水辺の森公園までイチャイチャ追いかけっことか、圧巻。ある意味一番衝撃かもしれません。ロケ地を知っている作品あるあるでしょうが、標高感アンド距離感おかしい。。。
是非長崎弁バージョンも放送してください!!
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本体
http://konkonroku.exblog.jp/33284189/
2024-03-16T11:33:23+09:00
2024-03-16T11:43:21+09:00
2024-03-16T11:43:21+09:00
aqua-magna
駄文
人間の本体は⁇??
都市の成立条件は人間と地理的条件
都市インフラは道具としてスタート
と、思考モデルの幹線をとりあえず整理する。
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社会的地位と乗り物のアナロジー
http://konkonroku.exblog.jp/33268699/
2024-02-25T10:19:35+09:00
2024-02-25T10:57:52+09:00
2024-02-25T10:42:34+09:00
aqua-magna
駄文
大多数の大人のデフォルトは徒歩である
速度と視点が違う
目的に応じて使い分けが可能?
持ち時間や経済状況や価値観その他の条件で最適解が異なる
等々
地位が高い人は視野が広いかというと、飛行機で移動する人は視野が広いかという問題に似ている。確かに視点は高いが、個人的身体条件、つまり目の機能や脳の処理能力に依存する。通路側で本を読んだり眠ったり、景色の価値を相対的に低く見る場合もある。
人間の身体も乗り物と捉えることができるとすると仮定ならば、もしも人生の出発地と目的地がまったく同じでも、同じ履歴を辿る人はいないだろう。この仮定が客観的に事実と証明されることはなく、個人の世界観に依存してどうとでも設定できる。人間は乗り物そのものかもしれないし、乗り物の運転手かもしれないし、乗客なのかもしれない。知らんけど。
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TOPΣの読み方
http://konkonroku.exblog.jp/33263036/
2024-02-18T11:52:58+09:00
2024-02-18T12:03:26+09:00
2024-02-18T12:02:45+09:00
aqua-magna
言葉
TOPΣ
の看板の文字をどう発音するのか?
漠然と気になっていたが、調べてみた。
トップシグマ
らしい。
私は「トップス」か「トルス」のどちらかだと思っていたが、「Σ」を「イー」と読んだ人がいたりすると、では「トペ」「トウプ」とかもアリなのか?
…まさかの
トップシグマ
ナナメ上だった。
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綺麗な水
http://konkonroku.exblog.jp/33246935/
2024-02-03T14:23:47+09:00
2024-02-03T14:31:48+09:00
2024-02-03T14:29:01+09:00
aqua-magna
駄文
美術の人「中国のカラフルな川とかですね」
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路上の歌声
http://konkonroku.exblog.jp/33179756/
2023-12-10T10:57:00+09:00
2023-12-10T10:57:12+09:00
2023-12-10T10:57:12+09:00
aqua-magna
駄文
●自転車のおっさん「♪〇〇(おそらく実名)ブッ●す~」。○○さん、上司とかなんだろうか…
殺伐とする世の中よ。
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原爆ドーム
http://konkonroku.exblog.jp/33175550/
2023-12-09T10:45:00+09:00
2023-12-09T11:02:07+09:00
2023-12-09T10:45:05+09:00
aqua-magna
駄文
前回、修学旅行でせわしなく平和記念公園の原爆ドームと資料館をめぐったことを、あまり思い出せなかった。あーこんなのだった気がする、と云った感じだろうか。
それなりに歳をとって、都市やら歴史やらに興味を持って、多少齧った程度の大人になった。
平和記念公園は、タクシーの運転手が「歩くとしんどい」と云うほど広い。公園近辺の街区は大阪梅田とかに比べると非常にスッキリしている。広島藩の城下町として発展した太田川デルタの広島市街には、大規模な再開発でもしない限り、巨大な公園や区画整理は難しかったろう。
大規模な再開発のきっかけは、言うまでもないだろう。この公園こそは、今日本人の多くがガザとかのニュースでしか知らないような民間人女性子供赤ん坊の大量虐殺の現場であった。いま家族連れの観光客のあなた方が、笑顔で散策してるその同じ場所であることを、意識しているだろうか。四半世紀前の私はそこまで意識していなかった。歴史ある大都市の大きな公園。核爆発がなければ、繁華街とかマンション街とかになっていたのだろうか。
原爆ドーム前の説明板には、いま「原爆ドーム」と呼ばれている、「広島県物産陳列館」(いかにも繁華街や商店街にありそうな名前)周辺は、当時やはり市街地だったとある。現在公園の片隅にある建物は、やはり記念物として強い意志で、爆発の傷跡を補強保全する目的で残されている。
観光客の多くは、そして四半世紀前の私も、凄惨な廃墟の外観に衝撃と感銘をうける。今の私は、それに加えて、その崩れかけた構造を支える力強い鉄骨の補強にも心打たれる。
インスタ映えする写真を撮る人の好みによっては、廃墟感を損なう塗装の新しい鉄骨は目障りかもしれない。そういう見た目への配慮か、鉄骨ができるだけ映らないよう配置してあるのか、グーグル検索で出てくる写真は、補強工事を担当した建設会社のHPのもの以外は、廃墟感を全面に押し出したイメージ通りのそれが目立つ。崩落の危機にある廃墟を、その人類に対する価値故に、できるだけそのまま、安全に保存するという、広島の意志を実現するエンジニア(専門的な難しいことはわからない。構造力学の単位落としたし)の心意気に、人類の希望を見て良いだろうか。
スマホをドームに向ける観光客の背中側に、なにかの構造物の欠片を転用したと思われる石のベンチがひとつ混じっている。
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2点の区別
http://konkonroku.exblog.jp/33148077/
2023-11-12T14:10:39+09:00
2023-11-12T15:54:58+09:00
2023-11-12T15:36:02+09:00
aqua-magna
駄文
現象の観測には、究極的には、2つの点が存在し、相互に異なると判断されうる必要がある。そのために空間と座標軸をもうけておき、例えば一本目は時間、2本目から4本目までは空間、それ以上は云々、といった具合に。どんな空間と座標軸をもうけるかは、現象に沿ってモデルをつくる際の便宜に依存する。通常最も綺麗な数式で現せるような空間と座標軸を導入する。
空間と座標軸の導入は、その能力を有する存在によってなされる。人間であれば、ユークリッド空間とかヒルベルト空間とか色々導入するが、サルはサルの、トンボはトンボの、バクテリアはバクテリアの空間をもっているのかどうかはどうなのだろう。石とか水とかは空間を導入できるのか、それはわからない。高度な宇宙人なら宇宙人の空間があるだろう。人類の天才が導入した空間も一般人が応用可能であるように、宇宙人の空間やバクテリアの空間も一般人に応用可能であると面白い。
⚫︎空間を導入する能力のある存在が、2つの異なる点を判別する。
これが我々の日常と科学技術の基本である。そうすると、
存在
が、論理的な始まりになる。何の能力もない存在、というのはあり得るか、という問いも、存在の観念抜きにはできない。
自己の他に存在があるか、還元すれば、他者は存在するのか?という問いは、論理的解決は難しいらしい。独我論が不合理かどうかは、私にはわからない。そこで、カント式信仰の導入である。
神の存在は、自己の信仰に依る。
他者の存在は、自己の信仰に依る。
では、自己の存在は?
それも信仰に依る。自己など存在しないという信仰も可能である。
科学が宗教となるとすれば、存在とその空間導入能力と2点の判別可能性への信仰である。それだけで足りないとするなら、理性をフル稼働させて、それを補助する。その方法論や成果は更新されてゆくので信仰すべきでない。
おそらく、現在有名な宗教の前提は、自己の存在の有無、他者の存在の有無の信仰ある。他者は存在しない、とう主張も他者の存在という概念に依存する。自他のどちらか先か、同一のものか、互いに超越しているのか、一方的に絶対的に他者が超越しているかどうかは、そこから副次的に発生する問いである。そしてそれらはするそれらはすべて信仰に依存する。
信仰を持たない存在はありうるか?
というのも信仰に依る。無信仰も信仰の観念あってこそ、といえるかもしれない。知らんけど。信仰と無信仰を超越した立場があるとするなら、それは、宗教でないのは勿論のこと、科学の具体的な方法論や成果への信仰ではない。
知らんけど、
補足
自己のモデルとして一点Pを、他者のモデルとしてもう一つの点P’をとる。2点の関係を述べよ。
点Pの問題、受験生の疑問もこういう議論に応用したら楽しいだろう。無論答えは人の数以上に多くあるだろう。
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戦争報道
http://konkonroku.exblog.jp/33141488/
2023-11-04T22:08:00+09:00
2023-11-04T22:12:44+09:00
2023-11-04T22:08:09+09:00
aqua-magna
駄文
という報道がないのは何故だろう?亡くなった方が多い場合の優先順位とかあるのだろうか?
高齢のご両親とかが出てきて平和を訴えたりすれば優先度が上がるのだろうか?
命は、皆等しく重い、んじゃないかな。たぶん。
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旅行のガイドブック
http://konkonroku.exblog.jp/33140921/
2023-11-04T09:22:00+09:00
2023-11-04T10:04:42+09:00
2023-11-04T09:22:50+09:00
aqua-magna
駄文
①その地の名勝旧跡体験グルメ等の現在そこにある直接的感覚的に楽しめるモノを箇条書き的に紹介した本。所謂ガイドブック。
②その地の博物誌、地理志、歴史、紀行等の、間接的精神的に紹介した本。
その中間に相当するものもグラデーション的に存在するだろう。①と②は補完関係にあり、①は②の、物見遊山目的の光を強烈に照射したときの一つの写像とか映像、②は影の部分とも背景ともスクリーンとも解釈できるかもしれない。①は②の、ひとつのサンプルとなる。
どちらをどの程度読んでから出かけるかは旅行者個人や旅行の目的の性格次第だし、そんな本を持たないで行き当たりばったりで体験するのもまた面白いと思う。私はだいたい予備知識を持たずにぶらぶら散策散歩し、記憶した上で、ぼちぼち、これもまた半分偶然のように行き当たった後者につなぎ合わさったときの楽しさが好きである。
しかし、もし私が、①的「ガイドブックを書け」と命ぜられたら、直接実用的な箇条書マッピングはつくらず、②の概略の文章を自分なりのストーリーで書き出すだろう、そして時間切れで①は書かないだろう。もし私の後に続くひとがもしいたとすると、①は現地の観光マップを見つけれよいし、②的背景があれば、現地での楽しみが増えるかもしれないから。料理はたまたまはいった食堂で良いだろうし、目的に集中しすぎて散策を忘れるより、道道の何気なさに現地を見つけられたら面白いだろうから。
レビューは、キーワード主体の無機的な箇条書き的なものよりも、キーワードが随所に組み込まれた有機的なストーリーの方が、現地(研究分野)の面白さが伝わる。網羅しているかもしれないがバラバラのピースを色の順に整理羅列されれる(有名な順にインスタ映えするマストスポットをスッキリ並べられる)より、間違っていても穴だらけでも当面使用しない余分なピースが混入しようとも、組み立てる途中のジグゾーパズルのほうが、著者の展望が見える気がするから。あとに続くか、批判して別の組み方をするかは、読者次第。
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カーボンニュートラル
http://konkonroku.exblog.jp/33140241/
2023-11-03T14:16:00+09:00
2023-11-03T14:16:50+09:00
2023-11-03T14:16:50+09:00
aqua-magna
駄文
カーボンニュートラルとは、「温室効果ガスの排出量と吸収量を均衡させること」であり、「人為による」温室効果ガスの増減を「実質的に」にゼロにする、ということらしい。実際に計算するためには、「人為による」部分、つまり、ある主体がある行為による温室効果ガスを排出とすると同時に、なんらかの(当該行為そのものである必要はない)温室効果ガスを削減する行為を並行させることで、その増減のバランスをとる、と解釈できる。二酸化炭素が問題になりやすいため、「カーボン」の名を関していると考えられるが、その他の温室効果ガスも念頭においた定義かとも考えられる。ただ、その後はひたすら「脱炭素」の話しかしないことから、環境省としては、「カーボンニュートラル」=「脱炭素」の図式を強調させ、他の温室効果ガスは説明を円滑にするためにあえて言及を避けたのかもしれない。
ここで素朴な疑問。主体が行為をなす際は、当該行為に伴う温室効果ガスの排出(あるいは吸収)は、どこまで収支計算の系に含まれるのだろうか?
A氏が自動車の運転を例に取る。排気口から排出される温室効果ガス(二酸化炭素だけ?)と、A氏がその温室効果ガスとなんらかの意味で釣り合いが取れると思われるような計算をした結果判明した、二酸化炭素の吸収に必要な植林を行ったと仮定する。
これで十分だろうか?たとえば、主体が存在し、当該行為をおこなうための付属行為をなすこと。
●運転という運動のために特に放出された温室効果ガス、(緊張に依る呼吸の増加や放屁等)。
●A氏または代理人に植林行為に伴う温室効果ガスの排出(別の自動車に依る樹木の運搬や、それに伴う温室効果ガスの放出、代理人の生活のうちそのために費やされた分のエネルギーが火力発電だった場合等)。
●樹木の生育のための温室効果ガスの放出、(肥料の生産や運搬、樹木育成者の生活のその部分に費やされたエネルギーが火力発電だった場合等)。
●その他、A氏の自動車運搬行為に関わるすべてを維持するための温室効果ガス収支。自動車整備工の使う装置が電動だった場合、等々
どこをどこまでスマートに無視するかが、カーボンニュートラルの計算のキモであろう。
植林の場合、未開地域の砂漠とかに、文明に未接触な現地人が、現地で容易に手に入り、植えただけで勝手に育ってくれる木を、とくに生活に支障がない範囲で手軽に植林する、とかでないと収支の計算が難しいだろう。実際は、現地人と交渉するために交通や通信が必要だし、A氏自身が自宅に植林するとかにしても、木を買ってくるまでに自動車や道路や電車とか業者とかのインフラを使いまくるだろう。ついでにA氏も腹が減る。
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人間の本体
http://konkonroku.exblog.jp/33130341/
2023-10-22T10:06:00+09:00
2023-10-22T10:12:36+09:00
2023-10-22T10:06:53+09:00
aqua-magna
読書
「人間」を定義する上で、どこまで身体を完成させれば或いは欠損させていけば人間の定義から外れるのか、というのは現実問題として、具体的には倫理の分野とかで非常に重要な問題である。受精卵は人間の成立条件を満たすのか、脳だけになれば人間と呼べるのか(或いは脳死は人死か)、とか、怪我や病気をするたびに体の部位を機械と置き換えていって、最終的にすべて機械になってしまえばそれは最早人間と呼べるのか(「テセウスの船」)。感覚や意識がなくとも人間か(所謂「植物人間」)、アイデンティティの統合を失えば人間か(無論精神病者も人間である)。はたまた、感覚とか意識とか物理的な身体に由来するような全部なくとも「魂」とかあれば人間か、とか。
生前や死後にもある特定の人間(自分とか親しい人とか英雄とか教祖とか)の本体が連続しているという信仰(輪廻転生とか浄土とか天国地獄とか)、そうであって欲しいという願望から、様々な形で人々に共有される「人間の本体」。在るのかどうかは、その人次第だろう(そんなもは修行の果てに最後まで頑固こびり付いた自我という妄執の残滓、悟れば本来の無に帰す、とかいうような信仰もあるし)。私はどうか知らない。私同様に一般の日本人なら、そんなディープな仏教徒でもなく、幽霊とか神々とか出てくる小説とか漫画や映画とか自然と受け入れる文化的な背景があるが、そういうのは普遍的なものなのかどうか(例えば、ポケモンの世界観に公式に異を唱える国家機関のあるイスラム教の国も存在する)。人間を人間たらしめる最後のナニカ、「アートマン」とか「モナド」とか最後まで残った妄執の一片とかそういうものが仮に在るとして、それが、在るのか、無いのか、連続なのか、消滅するのか、とかは、実に様々な説があり、どれも科学的な証明とかを超越した議論になり、グローバルに人々が交錯する世界、皆が一応納得するような、どれもある意味真である、認めるような、人間ならば納得せざる得ないような基本的で普遍的な学説(宗教に非ず)が欲しくなるところである(そんなものを作ってもエスペラント的な存在になるかもしれんが)。学説がその根拠に聖書やコーランや仏典の一節を引用して、ここに書かれているから真だ、するのではなく、その学説を採用するならば観測される現象として、その一節が説明できるとか、実際に現象として観測されれば、或いは理論的に現象されることがあり得ないことが証明する、というようなアプローチで。
はてさて、そんな「自分の本体」に関する学説が原理的に存在し得るのか、という問題が生じる。もしあったとしても、その学説を主張する本人しか納得しないような、賛同者を得たとしても使用する言葉遣いによってはある宗教に偏ったり、振興のカルト宗教の類になってしまうかもしれない。日本語で語れば仏教用語にまみれたようになり、ラテン語で語ればカトリックのようになってしまうだろうし、既存の学術用語を使用すれば誤解を生じ、造語を造りまくれば、電波な自分の世界に突入してしまうかもしれない。各方面から迫害をうけてしまう恐れもある。。。。結局、真実は人による、各人が考え見出し、悟った本人が発表を躊躇する(すべき)モノ、とかを自然におもいつくとか、日本人的発想に行きつくなぁ。
人間の本体を考える際の、時間軸を設定するなら、一瞬前の自分は今の自分と同じかどうか、一瞬後の自分は今の自分と同じかどうか、という言葉遣いになる。空間を設定するなら、自分の本体は肉体のどの場所に一致するか(空間の外にあり得るか、空間ぞのものでありうるか、も含む)、となるだろうか。時間と空間の四次元座標を設定するなら、時空のなかの2点が同じだろうか(時空の外にあり得るか、時空ぞのものでありうるか、も含む)、とか、色々アプローチがあるだろう。2つの点があって、その間にもう一つの点を、無限に内挿できれば連続となるだろうか。連続かつ微分可能であろうか。外挿は可能だろうか。とりあえず、いつも私を悩ませる(楽しませる)、点と点の間の問題に還元してしまう(笑)。
それはさておき、この記事は、読書感想文のハズだった。
「真実はいつもひとつ」もコナン君の説で、それはコナン君には真であるし、普遍的なナニカに根ざしているかもしれんし。「真実は人の数」と行ったら、コナン君は納得するだろうか。探偵としてのコナン君は「真実はいつもひとつ」、日本の文化を背景にしたコナン君なら「真実は人の数」と云うかもしれない。しらんけど。
今日の読書『名探偵コナン 104巻』青山剛昌著 小学館
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罪のない子供
http://konkonroku.exblog.jp/33129472/
2023-10-21T09:36:00+09:00
2023-10-21T10:08:25+09:00
2023-10-21T09:36:59+09:00
aqua-magna
駄文
はじめに断っておくが、それはとても悲しく、痛ましく、悪いことであり、起こってほしくないことである。私は彼らの言う天国とかあるのか知らないし、彼らの冥福の祈り方は、よくわからないが、彼らにこれ以上の苦しみがないことを願う。
「罪のない」ことはどういうことなのか。「子供」ということはどういうことなのか。もし、「罪のない」は「子供」の枕詞なら、「罪のない子供」を一語としてセットで考えるのが適当だろう。
通常、「罪のある子供」は社会的には定義されない。「原罪」なる概念があるならば、つまり、もし人が生まれながらにして罪のあるもの、たとえば生まれたての赤ん坊とか、肉体の生じた瞬間かから罪が生じるならば、なんなら受精卵の状態とか両親の生殖細胞の状態とか、生命ある状態が罪だとか、DNAの状態とか、分子とか原子とか素粒子とか、物として在る状態が罪だとか言い出せば、子供は罪るものである。「罪のない」と枕詞をつけないといけなかったり、「罪のある子供」と云ったりしないのは、願望とかタブーとかのたぐいであり、そうであってほしい願望が「罪のない子供」のフレーズを、目をそむけたい状態が「罪のある子供」と云わない忌避感だったりするのかもしれない。しらんけど。
では、「罪」と「子供」は、独立の概念であるだろうか?
子供を自立していない人間とするならば、つまり、生存に必要な資源を親等の他者に依存している人間とするならば、「罪」の発生源ともいえるかもしれない。「無罪」は「有罪」の発生源であるかもしれない。何故ならば、子供に資源を供給するためのシステムこそ、他の子供を搾取したり戦争を生み出しているとも捉えることができるからである。
いわゆる『クレヨンしんちゃん』の野原家のような日本の中流家庭(現代では「勝ち組」側?)を想定する。親は会社づとめをして家や電気や水や食料を消費し、税金を払い、子供とペットを養い、税金を払うという、経済活動にどっぷり参加した生活を送っている。子供は自らの心身の成長のために資源を消費し、親にそれを供給することそのものが存在意義であったりするのかもしれないし、それが親を社会の経済活動に参加させるモチベーションの一つとなっている。経済活動は、罪なしに成立しない世界中を巻き込んだドロドロの、国家や政治や戦争等の一切を伴う、人間の営みである。
子供の成長のために親が経済活動に参加している、ということは、こどもは「無罪」で親が「有罪」でありえるだろうか?親に(他者に)経済活動を行わせることなしに子供が成長できないのなら、成長した子供が大人となり親と同じように経済活動に参加する見込みがあるのなら、子供が「無罪」なら、大人(他者)に罪を発生させるような「無罪」である。子供の無邪気な笑顔や成長に「罪だね」と感じる瞬間に、大人(他者)は自分を反省しているのかもしれない。
日本の親が子供に与える明るく温かい部屋を維持する電気やガスは、どこか外国で子供を含む鉱山労働者のブラックな奴隷労働から供給されているのかもしれない。子供が大好きな、その一杯のココアは、アフリカの子供が学校にも行かずに働いて作ったカカオ豆を原料としているかもしれない。その服は、倒壊するようなビルでの低賃金労働で縫製されたものかもしれない。「歴史」を知らない「罪のない」子供は、その鉱物や植物等の一次生産品を作っている場所がかつて植民地であった名残でそういう仕組になっているとか、金や物の流れは、つまり経済活動が、欲望や差別や格差を動力として動いている場合もありうることを、まったく意識せずに「無罪」であることになる。そういう動力の発生源としての「差」がなければ、経済は動かないのかもしれない。「差」がなかった社会を我々は、えらい大昔にあったかなかったか、少なくとも直接は、知らない。人間がふたりいれば「差」がないわけないと思うが。しらんけど。
鶏が先か卵が先か、大人が先か子供が先か、「有罪」が先か「無罪」が先か、有が先が無が先か、生が先か死が先か、陽が先か陰が先か。一が先か多が先か。神が先か人が先か。それとも全てがイコールか、幻か。根源的なものはもっと奥か、絶対に何もないか。私にはわからない。勇ましく「わかる」といって、答えの出ないような問題に明確な回答を与えるのが宗教なら、宗教同士は根本的なところで対立するのかしないのか。しないのなら、宗教は「無罪」で人間が「有罪」ということになり、「子供は無罪」「大人は有罪」の構図と似ている気がする。しかし、もし仮にその根本的なところで解決しても、現実の戦争は多分解決しなさそう。しらんけど(純粋に哲学的なアプローチで現実の戦争を直接停戦状態とか終戦条約を結んだとかの事実上の解決した人が多分いないから。哲学的な政治家がそれをなしたかどうかは、本人以外わからないかもしれない)。だからといって根本的な問題を実用的でないとして無視放置することも人としてどうかと思う。
罪を意識しないことが罪、と云った哲学者がいた気がする。差別の文脈で、自分が差別する存在であることを忘れて他人のする差別を安全地帯から非難することはその差別する他者よりもある意味良くないかもしれない、みたいな(誰だったか、いなかったらスミマセン)。もし、子供が罪を「忘れて」いるのなら、罪は軽いのだろうか。罪を「知らない」ことはもっと良くないのだろうか。しらんけど。
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国家と武装勢力
http://konkonroku.exblog.jp/33123669/
2023-10-14T09:59:00+09:00
2023-10-14T09:59:24+09:00
2023-10-14T09:59:24+09:00
aqua-magna
駄文
一般に、国家には、原則として、主権と国民と領土とが必要とされている。したがって、国家を名乗るためには、ある集団が、主権と国民と国家を(その集団による独断と偏見){で設定し、成功すればある領域を事実上統治したり、他の国家に承認されたりすることとなる。承認と事実上の統治の順番はケースバイケースだが、他の国家の大人の事情だったり複雑である。「マルタ騎士団」とか亡命政府とか事実上領土が存在しなくとも「国家」を名乗る集団もあるので、国家を何かと問われると、最終的には国家を名乗り、周りからもそう認められる集団、というふわっとしたものになる。どのくらい認められれば国家になれるのか、というのは、最低でもある一国が正式に承認していれば、とりあえず格好はつくかもね、というものなのかもしれない。しらんけど。
国家は武装勢力だといっても間違いないだろう。武装せずに国家になれた勢力は、非常に例外的であるか、常設の「軍隊」は放棄しても警察組織等を含めた武装組織等を完全に放棄した国家は、事実上存在しない。一般に、武装勢力は国家になり、国家は武装勢力である、と思っても非常に多くの場合、適切である。国の中の外も、話し合いの通じる人が100%ということは、あり得ない。
ファンタジー世界で、牧歌的な農村に、ある日武装集団が押し寄せ、すべてを略奪して去っていった、という始まり方はテンプレだろうが、そんな物騒な世界で、広々とした、あるいは点在する村々の農地を開拓し維持するためには、やはりそれなりに侵略行為で土地を広げんじゃないかとか、「防衛」のために多くの外敵を殺しているんじゃないかとか、そういうことも思うわけで、それがまた物語のテーマになったりもする。村が牧歌的であった裏の世界は・・・みたいな。弥生時代の村落から国家への拡大とか、土地や水や安全保障のために周辺の村々とリアルファイトからの連合なり王権なりの血みどろの歴史、なのかもしれない。じゃあ縄文時代は牧歌的であったのか、というのかは、どうなんだろう。農耕文明が人間同士の争いを生み出したわけではないだろうが、農耕文明が組織的な武装集団を発展させたのは多分本当だろう。しらんけど。
「勝てば官軍」、とは良く言ったものだ。武装勢力が成功すれば国家になる、というのは、中学校や高校で歴史を勉強していれば、国家とはだいたいそんなものだ、ということがわかる。ローマ帝国もモンゴル帝国も日本国も中華人民共和国も、国家として歴史に名を残すまでは、今の言葉で言えば武装勢力である。武装勢力に敵対する勢力からの国家承認は、実力で確立するしかない。武装勢力、はまだ中立よりの呼び方の感じで、とくに敵対的な相手からは反政府ゲリラとかテロリストとか反乱軍とか夷狄とか呼ばれる。「テロリスト」「過激派」は敵側からの呼称であり、自称で使うことは稀だろう。国家とは、成功したテロリストである、とか、ちょっと偏った皮肉を云いたくなる(全然新しい発想でない、むしろ中二病的でダサいところが怖い)。
話し合いで解決できない大人の事情と感情、譲ってはいけない集団のアイデンティティや存在理由、歴史上培ってきた古典的な「勝てば官軍」の慣習。安易に「譲ればいいのに」と云えない当事者の何かが、傍観者にはわからないんだろう、たぶん。わかるとすれば、国家と家庭とを同一視できないし、わかりやすさがかえって危険であるが、それを踏まえた上で、ある家庭に、「大事な人やモノを差し出せ」「嫌だ」「ならば家ごと滅ぼす」「(どうする〇〇)」みたいな例になるんだろう。配偶者や子や自分自身なら相手の思うままにさせるか、水源や土地家屋や金銭とかの財産なら無条件に差し出せるか、神への信仰ならやめられるか、自由な経済活動なら放棄できるか、隣の家ならどうぞ、となるか。逆に、他から略奪しなければ家庭の「大事な人やモノ」が維持できない場合はどうなのか。それは単なる欲望なんだろうか。
解決できなかった歴史が積み重なり、現代もそうである重みを傍観し、暴力抜きで解決できることを切に願う。
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インフラ
http://konkonroku.exblog.jp/33114961/
2023-10-09T09:22:00+09:00
2023-10-09T09:33:57+09:00
2023-10-09T09:22:53+09:00
aqua-magna
駄文
インフラ
道路とか、鉄道とか、病院とか、そういう物質的なものを指す場合が多い。物質であれば何でも良いか、と考えるなら、人体もそうではないか。自分自身の体とか、自分以外の人間すべてとか、動植物とか、岩石とか空気とか、放射線とか、素粒子とか、光とか重力とかブラックホールとか....
とくに、自然にあるようなものは、人類とか自分が存在するための大前提ともいえる上に、当たり前のように所与であるために、インフラとして思いつかないだろう。他社の社員とか他国民とか、アカの他人とか、存在しているかぎりは何らかの影響を世界に与えているだろうし、少子化とかは、社会を構成するインフラの減少と捉えるとより深刻度が増すように受け取れるかもしれない。我々が当たり前のように使っている道路や鉄道や病院を建設維持管理しているのは人間なのだから。
物質的でないようなインフラも考えられる。物理法則や人間社会を構成する諸制度(法律とか宗教とかオキテとか常識とか1対1の人間関係の意識的無意識的な約束事とか)も、「ある」か「ない」かは大いに議論があるかもしれないか。制度的インフラ、という言葉もあるし。
人間がいないとインフラはない。
とも考えられないこともない。人間の生活を、基本的に下から支える目的のナニカがインフラなら、目的の対象、すなわち人間がいなくなれば、道路も鉄道も制度も物理法則もその他諸々も、インフラとしては機能しなくなる。道路として使われなくなったモノ、鉄道として使われなくなったモノ、病院として使われなくなったモノ、がそれでも道路であり鉄道であり病院たりうるのかは、疑問を呈する余地がある。また、宇宙は人間のために存在しているのではないだろうから、人間がいなくなり人間がインフラとして利用しなくなったからといって、宇宙そのもの自体の存在の有無とかは、ナゾである。
人間が万物の長であり、人間以外の全ては人間のためのインフラ(エコシステムサービス)だ、神が人間のためのエコシステムサービスを造りたもうた。そのエコシステムサービスを管理するのは人間の義務だ、とすると、宗教的にスピってしまう(悪いとはいっていない。信仰は自由だし。私の趣味ではないだけ)。そういうふうに考える人も一定数いるが、少なくとも科学ではない(悪いとはいっていない。念のため。エコシステムサービスは科学でない、というと怒った人もいるので、無駄なトラブルを避けるため、悪いとはいっていない、と強調する。それはある一つの(唯一ではない、多様なうちのひとつの)宗教的世界観であり、非信者がその善悪を論じるのは無粋だろう)。
インフラの言葉の定義をいじってみるだけで、スピらなくとも自分以外の他人や自分自身すらも自分を含む社会のインフラかもしれない、と考えると何が嬉しくなるのかと考えると、自分の健康に気を使うようになるかもしれないし、自分や他人やその関係について無意識の当たり前であることを実感的になるかもしれない。まあ、インフラ教とかいわれるかも(笑)。
それなら、人間がなくなっても、岩と苔は存在するだろうし、岩は苔のためのインフラであろう、といえるだろうか。
言えるだろう。
しらんけど。苔は岩を維持管理しているとか、できる、と考えるかどうかは、観察する主体の視野や価値観や世界観に依存する。
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