カギ括弧は、基本的に引用符である。一般に馴染みのない専門用語や、さらに一般性を減じて、ある話者独自の世界観に基づく造語など、何らかの限定された文脈においてのみ通ずる意味の含蓄を暗喩するために使用される。ときには筆者の思想に対立する論者の文脈中での意味を示し皮肉や軽蔑のニュアンスを伴うこともある。また、単にその語を強調したいときに使用されることもある。
カギ括弧を伴う言葉には、ある程度突き放した客観的な説明が必要である。なぜならば、たとえ自分の言葉であろうとも、少なくとも他人の言葉を使うかのごとき印象を読者に与えるためである。また、カギ括弧つきの言葉の意味を説明せず、文脈中で読み取ることを読者に求めるのは説明者として失敗している。なぜならば、文脈で意味を為す以上、いくらでも意味を足すことができ、説明なしで濫用しても「矛盾はない」はずだから。しかし、多様すぎる意味をもつ言葉で論説文を読み書きすることに賛同する人はあまりいないだろう。 都市工学関係の本、とくに風景学の本を読んでいると、よくカギ括弧に出会う。それらの本の著者は、その言葉の意味をキチンと説明してある場合が多い(?)のだが、いかんせん哲学的なニュアンスを秘めるため、ともすれば難解で、深い理解をするためには同じ著者の本を複数冊読むか、著者本人と直接語り合う必要があろう。 パラパラとページをめくるだけで、カギ括弧つきの言葉は容易に発見できる。列挙してみると、文脈から外しては意味を成さないことは一目瞭然である。これらの言葉を此処で個々で言葉を見ただけで、意味が分かる人などこの世に存在しないと信ずる。 「図」「地」「内部空間」「外部空間」「境界」etc. (芦原義信『町並みの美学』) 「自然」「見立て」「都市の意味」「都市性」「風土」etc. (オギュスタン・ベルク『都市のコスモロジー』) 「世界都市」「中心性」「集積性」「交流性」「ダイナミック(動的)」「スタティック(静的)」「物」「情報」etc. (若山滋『ローマと長安』) 「用」「図」「地」「無自性空」「形」「風景の好み」「人境」「風景のまこと」 etc. (中村義夫『風景学入門』) 括弧の中に納まる言葉は、大体抽象的な言葉であり、括弧をつけることで筆者の意図する意味でのニュアンスを帯びさせようとしているようだ。抽象的な言葉は、元来明確な定義のある言葉でないため比較的自由な意味づけが可能で、括弧の中に納まりやすいのだろう。しかし、素人が読む場合、何か深遠なアリガタイ権威がありそうな気がするだけかも知れないという警戒心、あるいは神の啓示に対するがごとき信仰心を起こす可能性があり、その言葉がツーカーで通用する学会誌ならばともかく、素人を相手にする新書のような啓蒙書ならば、紙面の制約もあるかもしれないが、できるだけ砕いて説明してほしいものだ。 とはいえ、「風景」なる分野は、やたらとカギ括弧を多用しないと説明できない、換言すれば、論者独自の概念や抽象的な用語抜きには本質を語れない、つまり、哲学的・芸術的な要素の強い分野である。論者たちは世界観論じそれに基づく工学的応用を提案し、具体的な公園や町並みのデザイン案を具体的にスケッチしたりする。具体的で生産的な姿勢は賞賛されるべきだが、それは「カギ括弧つきの風景」である。究極的にはある一個人の哲学に論拠のある非民主的な風景である。なるほどこのデザインはそういう意味があって書かれたものかと説明つきで読む分にはよいかも知れないが、建設後の利用者には深い意味など興味の対象ではない。たとえば、ある建築家の西洋の芸術的な風景論に基づいて西洋的に統一された風景を目指し近代的駅ビルの正面に裸婦像を陳列されても、日本人の多くは裸婦像を見て恥ずかしいと感じるのではないだろうか。 風景論にカギ括弧が多いと、私は、「立派な論かもしれないが、これに基づいて芸術的な風景を目指されてもなぁ」と、感情的な反発を感じる。都市の風景は、観光客や旅人などにとってはともかく、その土地の住人の芸術性をいたずらに刺激したりしない、住人の体になじんだ無主張なものが望ましいと、私は思うからである。しかし、現在の日本の都市の風景は、風景を制御する西洋思想の流入を国民が持ち始めている以上、ある程度「美しく」ならねばならない。そのためには、理想的な都市や風景を考察する理論が必要にもなるだろうし、建築家や風景論者の提示する案に基づいてインフラや私有財産が統制される必要も生じるだろう。しかし、その際には、受益者である非専門化・非芸術家である一般都市住民のコンセンサスを得るために都市の設計を柔軟に改訂・変更できるように工夫する必要がある。それは風景論者や芸術家の美意識を貫くための説明であってはならない。たたき台である設計図や完成予想図をいじくりまわして住民の腑に落とすまで吟味するための話し合いであるべきだ。必ずしも住民ウケしない奇抜な構造物、例えば長崎港のオレンジ色の球体や京都駅ビルのような構造物を作る際には、十分注意して、設計者側の説明にカギ括弧が取れるまで、その建物が都市という文脈の中の「カギ括弧」にならないようにするべきである。
by aqua-magna
| 2006-08-30 17:47
| 駄文
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