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京都 ー一部と全部ー

物事の全部を知ることは不可能である。研究者は限られた量や質のサンプルを、何らかの説得力のある方法で得て、制限された方法で新たな知識として再構成して、全体のモデルを模索する。

人体の一部が机の上に転がっていたとすると、その欠損感は半端ではない。グロテスクですらあろう。しかし、然るべき場所、例えば火葬場の台車の上に骨が散らばっていたとしたら、多少の納得はいく。そこには文脈があるからである。たとえ欠片であろうとも、然るべき説得力のもとに、骨がそこにあるからである。そのうちの一部を採取して、他は残して去っても、まあ違和感を感じはするが、すべてを完璧に集める手間暇の不合理を優先するものではない。

文脈を構成することが、人を納得させ、合理性が感情を整理する。知の発見とはなんと人間的な仕事であることか。




京都の街を①外国人と一緒に観光するときと、②一人で散歩するときと分けて考えると、どちらも京都の重要な側面を観察する行為であり、総合すると新たな知識として身になることかもしれない。

①外国人と観光すると、清水寺、金閣寺、伏見稲荷といった輝かしい文化の定番のスポットを、外国語通訳を兼ねながら、人間関係を優先させながら回ることになる。一種儀式的なルーチンでありながら、友達や、友達の友達、共同研究の組織の人と同じ空間と時間を、京都という舞台の上で織ることになる。より「伝統日本文化」的なものを求める雰囲気重視の観察である。基本的に美しい風景を求める。

②一人で散歩すると、一歩部見こむごとに未知の世界が広がる探求の世界であり、地図と書籍やウェブの情報を支えに寄り道を繰り返す気ままな世界である。基本的に自分の世界であり、誰と会話しなくともとりあえず完結する。学部生として自身も経験している、観光ルートではありえない生活者の京都や、千年の歴史から生じる膿も意識せざるを得ない。「伝統日本文化」も近代も雑多な構成要素の一部にすぎない人間の生活の反映された街の観察である。基本的にあまり美しくない風景を見てしまう。

2つの観察方法で得られた京都の姿は、私個人というバイアスはいうまでもないが、ある方法で得られた情報の断片という意味では対等である。私は別に京都研究の専門家ではないので、「ある方法」を学問的に洗練された方法論に仕上げる気は毛頭ないし、私の行動パターンにさほどバリエーションがあるとも思えないが、限られた範囲の経験と知識が蓄積して統合されていく過程はとても面白い。

京都も観察方法によっては醜悪な側面はある。美しい部分だけ眺めていたいのかか、その美しさの角度を変えて汚さを見ることで全体を捉えようとする欲求を満たそうとするのか。どちらも人間の性でしょうなあ。それでもものの一部しか見ていない。また、美醜という基準或いはバイアスを一旦外すことができれば、京都の本質に一歩近づける気がする。どうやったら外せるんだろうなぁ。



by aqua-magna | 2017-03-19 11:19


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