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利用したらどうだろうか。そのせいで自分が困ったり苦しんだらする事すら計算に入れて結果オーライに持ち込むには、それなりにトシをとる必要があるのだけれど。
なるほど説教好きな人がいる。しかし、説教好きな人は必ず自らは説教好きでないと思っている。
この種の人が語るのは、たいていは精神論で、日本国憲法前文や第九条を読み上げるがごとき高邁さでとうとうと訓説する。ただし、聞く者にその言葉に具体性は一切感じられない。自衛隊を持ってよいのか悪いのか、世界情勢に対応する現状分析とをどれくらいの予算で平和を維持できるかの分析に相当する現実的具体的行動に関しては何も云わない。むしろ云わないことを教育と思っている。 この種の人は、ただ聞き手との年齢差に相当する年数に、自らの経験をその抽象的文句に込めて陶然と語る。なるほど彼の脳裏には一言一言に深い意味が走馬灯のように駆け巡っていることだろう。しかし、聞き手はクエスチョンマークのみが脳細胞から駄々落ち、ついには耳にはノイズキャンセリング機能を施す。 この種の人々の中には、こんなことを何年もやっていて、「ずっと言い続けていいるのに、何のも変化が見られず、無力感を覚える」とかのたまう人もあろう。 私には、そんなことを続けた経験があるのかないのか。 変な時間に目覚めてしまった。天気が不安定だとどうも生活が滅入りモードに入る。
かなり久しぶりにアクセス解析を覗いてみた。 ここ1年間でアクセス数が多かった記事トップ5。 1位:テキサス州運転免許試験-学科試験 2位:in と within の違い 3位:웹툰 4位:皇帝とチキンラーメン 5位:カギ括弧つきの「風景」 テキサス州運転免許の話と英語の話がトップを占めるところを見ると、お隣さんの、実用的な記事は読まれている、という結果と似ている。実用を求めて迷い込んだ人には期待はずれで申し訳ない。最近書いた記事が3位に入ったのが意外。日本人で韓国製の漫画を読む人が多いのだろうか?
ことあるごとに「論理的に話せ」という人がいる。しかし、彼は必ずしも論理的に話さないように見える。逆に、論理的に話すと混乱するらしい。一言一句に強烈な定義を込めてしまう人に見られるパターン。こういう人は、人が話していても、いちいち「違う、それは。。。だ」と語りだし、それに対して反論しようものなら、永遠に抜けられない定義の泥仕合に突入し、最後に「論理的に話せ」と最後っ屁をかまして去っていく。
論理的思考とは、どちらかというと、あまり言葉の定義にとらわれずに、論理の構造を頼りに話を進めることである。代数的思考というべきか、具体的な数字にとらわれずに、何か言葉をxとおき、Ax+B=yとかの式が成立するならば、yはこの式にしたがって結論付けられる、といったような思考である。したがって、論理的思考は、純粋に遂行すれば非常識な結論が多く出る。もっとも、幾ら結論が非常識でも間違っているかどうかは事実と照らし合わせて検証が必要である。 他人の思考のなかの言葉の定義x(たとえばxは整数)と方程式(たとえばAx+B=y)を、自分の中で固定された言葉の定義x(例えばxは自然数)と数式(たとえばAx√B=y)で、融通を利かさずに聞いていれば、コミュニケーションが取れるわけがない。当然違和感を感じる。冒頭の人物は、違和感を感じる能力はあるのだが、この違和感を感じた瞬間「論理的でない」と叫びだす。ある一連のストーリーが、自分の論理とは違うが、相手の中で論理的に矛盾はないかも知れない可能性に思い至らないのであろう。他人の思考に対する想像力の欠如というべきか。 いちばんひどいのが、x=1のときしか知らず、1でしか成り立たない式しか立てられないにも関わらず、それが普遍的かつ論理的であると主張して憚らない人である。 コミュニケーション能力に炊けた人は、自分と相手の式の構造とxの空間との違いを、少ない会話からたちどころに把握し、その把握した高みから自分の言動を、自分の優位なように(相手のために)操作する。 相手の生命観で自分の生命を扱われるのは恐ろしい。したがって、自分の生命観で相手の生命を扱うことは原則よろしくない。個人個人の生命観を尊重するのが基本であって欲しい。これは個人ベースで人間を見た場合の正論である。
一方で、膨大な生死を扱わねばならない国家ベースの見方であると、無論個人の生命は大切であるが、与えられた条件で最大多数の生命を保全するのが役目であるので、生命、生命観など原則統計的に処理するのがよく、個人への配慮はオプションで考えるのが普通であろう。大枠でどう扱うかを決めなければ仕事ができない可能性が高いし、細部には万全ケアをすると金がかかって仕方がない。 個人と国家、この二つのベースでの生命観は対立するのが当たり前である。常に対立しつづける宿命のライバルである。国は一人の生命観、生命を守るためにどれだけ予算を使えるか、言い換えればどれだけ見捨てなければならないかが現実問題であるし、個人はその生命観は自由であるし、生命は一度失われれば取り返しがつかない。 対立する二つの正義の間には、そのときどきの妥協はあっても、根本的に解決などはしない。常にホットな論争の対象であり続けて欲しいと思う。 日本人の人間関係のモデルとして、従来よく言われる「ウチとソト」の人間関係は、大雑把に言って、仲間とみなされる範囲内での人間には注意を払うが、仲間以外の人間には無関心、という人間関係のモデルであったように思う。
しかし、いま「オレとウチとソト」と、関心の重要度のモデルを見直す必要が出ているように思う。すなたち、「ウチとソト」モデルでは優位な比重を占めなかった「オレ」(西洋式「個人(individual)」ではない、後述)の占める割合が、人間関係のなかで増えてきている。もっといえば、「ウチ」や「ソト」対応するための「オレ」が従来ほど希薄でなくなったように感じられるのだ。 私がここで云う「オレ」とは、従来の「ウチ」をすべて個人で体現している、つまりは、たったひとりで「ウチ」を構成している精神構造のことである。この「たったひとり」が「ウチ」が集団であるというモデルを修正し、かつ西洋式「個人」と表現しない理由である。西洋式「個人」とはすべての価値基準、行動基準、モチベーションの主体としての「個人」、相変わらず無視できるくらい存在感がない(あるいは観念として存在しないのかもしれない)ので、この文化の中ではあまり重要ではない。 従来「ウチ」で空気のように共有されていた情報はそのままに、情報社会の発展により、ひとの趣味嗜好で集められる種類の情報の量と質が、飛躍的に向上した。そして、ひとは「ウチ」に対応しつつも、「ソト」から抽出してきた成分を同化、熟成させてゆき「オレ」になっていく。それが目に見えるようになってきた、あるいは隠そうとしなくなった。卑近な例では「オタク」「ネラー」の類だ。ある特定の分野のファッションにこだわり、周囲から浮いた服装をしつつも、「ウチ」での役割をこなしてゆくような女性もそうだろう。しかし、あくまで彼らのそういう部分は「ウチ」ではない。なにか別の名前で呼んでみたくなった。 そこで「オレ」はどうだろう? こう名づけると、観念が一人歩きしてくれないだろうか? 単語の定義がその人の中で絶対化していて、言葉の選び方、運び方がちょっとでもズレると、その瞬間にいちいち突っ込むとかが特徴。その人の思考形式がすぐれて論理的なわけではない。逆に、論理記号的に図式化すると、矛盾だらけだったりするので辟易する。
他人の使う言葉に対する想像力の欠如から、他人の思考が理不尽に聞こえてしまうらしい。たとえば、この種の人の、理解できないことを「分からない」というのに一通りの意味しかない。すなわち、「私には理解できない、したがって普遍的に間違っている、だからお前は間違っている」彼目の前の会話の相手は、彼とは独立した人格であってはならないのだ。 理科系の専門用語ならばありうる。しかし、それでも単語の意味は幅があり、研究者によって意味する背景が違うこともあるのだから、最大公約数的に意味を捕らえながら会話するのが普通である。その言葉が別の人によってどう使われているのか、というのは、新鮮な驚きと世界の広がりであるはずなのだ。「明らかに誤用だ」と聴いた瞬間切り捨てるのが面白いのだろうか?しかも、この種の人はたいてい技術的専門用語以外の抽象的単語の意味を独断と偏見で固定させている。 この手の人と会話するときには、すべて相手の定義で、相手の文脈の流れを確実に把握しつつ、つねに相手のペース進め、自分の言葉の意味も相手に引渡し、自分の文脈も相手に引渡し、判断を仰いでもらわなければならない。そこに自分は存在しない。滅私奉公である。すべての人間は生まれながらに平等であるという世迷い事は忘れなければならぬ。 彼の周囲の人は噂するだろう。 「どうしてあそこまで話がかみ合わないのだろう?」 「。。。それはいっちゃいけませんよ」 「何故彼はあんなに偉そうなんですか?」 「。。。しらないですよ」 もし、彼にこの文章を読ませると、きっとこう云うだろう。 「それはお前のことだ」 これは至極当然な回答である。なぜならば、彼にはすべての人間が彼自身と同様か、彼より劣った者か、「分からない」者に見るのだろうから。他人は自分の鏡とはよく言ったものだ。「受信者の限界=発信者の限界、世界の限界」。人間は万物の尺度である。
よく、何の脈絡もなく話題が変わると指摘される。
何故なのかは分からない。 話している私は、連続していると思っているからそういう話をするのであるから、どこで飛んだように聞こえるのかちょっと教えて欲しい、といつもおもっている。 「頭の中身どうなっているの?」 高校時代のクラスメートが云った。彼女はいたってまともなひとであるが、勉強なら私も彼女と同じくらいの成績だったのだから、学校の勉強と飛ぶ話題との関連はあまりないと思う。 大掛かりな装置で調べてもらったことがあるが、一般と有意な物理的形態の差は見出せないらしい。したがって、 「高い確率で普通である」 と答えるのが正しかろう。 ここを読んでいる人は、おそらく非常に数が限られている。
しかし全世界に無料で公開している。 露出癖だの落書きなどと罵る方もあるかも知れない。 しかし、なんだろう、なぜか止める気がしない。 零細ブログを続ける異議、というのも大げさだけど、ひとりの人間がささやかに考えていることを、全世界に発信する異議とは何だろう? これを悩んでブログを閉鎖してしまう人、更新を止めてしまう人も多く存在する。 書くか書かないはまったく本人に依存するのだから、自由だ。 私もいつか止める日が来るのかもしれない。 しかし、いまは続けている。 ブログやHPといった出版道具が一人の人間の人生で、文章を公開する機会など殆どなかった。 したがって、多くの名もなき人間が書いたものを世に残すことはなかった。 いまは違う。一本の草にも魂があることを訴えることができる。 どこかの誰かが、気まぐれに、通りがかりに摘んで持ってゆく可能性がある。 たしかに一銭の価値もない雑草である。美しくもなく、芸術的に汚くもない。 しかし、万が一、一億二千万分が一にも、一銭の価値を見出してくれる(別に私が対価を求めているわけではない)ひとが一人でもいるとしたならば、というささやかな価値でよい。ほんとはそれを期待している。耳を傾けてくれる人が欲しい。 誰か売れない小説家みたいな人が、 「一人でも読者がいればそれは文学として成立するのだ」 といっていた気がするが、そんな感じだと思う。幸いにして、読者はゼロでない。 コメントはゼロである場合が殆どである。しかし、なんらかの痕跡をその人の心に残すことができたら、このブログを書いている価値がある。 読みやすい文章をかけるかどうかは、もっぱら書く題材と文章力と気分と目的によるので、読みにくかったら、さっさと放棄するなりしてください。 P.S。 お隣さんたちの文章は、チェックしている。コーヒーを飲みながら、日常の糧としてにしているので、どうかご自愛を。いつも楽しみにしています。 物事を判断するためには、データとして知識が必要である。
まず、自分の手持ちのデータで判断しようとする。 不思議なことに、人は自分の手持ちのデータのみで判断しようとするらしい。 自分の持たないデータのほう圧倒的多いのにも関わらず、勇ましく手持ちのデータから現状を外挿する。 自分の持っているデータ、持たないデータを区別して把握することは難しい。 とくに、自分の持たないデータがどんなものであるか探し当てるは難しい。 自分の手持ちのデータはどこで手に入れたか? 自分が接する世界の広さなどタカがしれているし、インターネットのキーワード検索にしても、自分が入力できる単語は自分が知りうる言葉の範囲に限られる。 どうして皆圧倒的なデータ不足に不安にならないのだろうか? 不安にならないために、勇ましく手持ちの乏しいデータをいじくって外挿の世界をこしらえて安住するのだろうか? 知らないことに気づかない人っているのだろうか? したり顔で暮らして平気に見える人々の内面など知る由もない。 こんなことをいっている私もそうなのだろうが。。。 そこで、今あるデータを総合して、一般化する適当な外挿法を模索しようとするところが、たぶん学生の仕事なのだろう。知らないデータの数は、人間の寿命を考えると実質的にエンドレスに無限なので、かなり大胆な仮説が必要であろう。それを狭義に「哲学」と呼ぶ人もいるらしい(生き方論的な意味での用法として)。それは皆できる。で、社会的に「暇」を与えられている学者とか学生とかが論ずべきは、全人類全宇宙的にに普遍的な原理であったりするのだから、相当無茶だ。本気になってとりくんでも、すぐ寿命が来てしまう。 したがって、真理の探究に熱心な者は、自分の方法論をコンパクトにまとめ出版し、同時に次の世代の育成に真剣にならなければ気がすまないのではあるまいか しかし、人付き合いがうまくないために空回りする人が多いかもしれない。 彼らは当然のごとくかなり世間と遊離しているだろうから。 そういう人間のために、データ(ひろく現在および潜在的に人間所与のものとしてのすべての情報)の収集、解析、結論付けの方法論としての哲学の発展的継承の連鎖をつなげるところに、学問の府としての大学の意義があるような気がする。それは方法論は、実用的に金儲けや便利な生活に役立つかもしれないしたたないかもしれない。役に立つ部分は役に立ったらすばらしい。ただ、そういう即座に役に立つところだけを求める人ばかりになると学問の府としての大学の存在意義はない。 大学と名前をつけてあるからといって学問の府であるとは限らないことを容認するならば、とくに気にしなくても良い問題であるし、方法論の敬称発展が行われるなら社会的に認知される組織である必要もないだろう。しかし、後継者として人をうる為には、そういう組織にも社会的に権威がないといけないのかもしれない。その権威のための代価としても、組織化することによる効率とかもあわせて、裾野の広い巨大組織になってしまうのかも知れない。。。 MicrosoftのOfficeとは互換性がいまいちの、Googleドキュメントの有効な活用法はないだろうか?
Google ドキュメント https://docs.google.com/ Gmailを使っている人は分かると思うけれど、書いた先から勝手に保存してくれる。 書き飽きたら即閉じるだけでよい。次回開けたとき同じものが残っている。 無論、ファイル名を変えると、保存時間の違う別バージョンをいくらでも残せる。 思いつきでつらつら文章を書いて、飽きたらさっと止めて忘れるような書き方をする人には便利。
当たり前のことだが、人間の意識は、分子を分子としてとらえることはできない。
人体は、ミクロな視点で見ると、細胞の受容体やらなんやら、とにかくそこにやってきた分子と相互作用をおこし、その結果として生じる変化を、ドミノ倒しのように神経細胞内の変化を同様に惹起し、その結果脳にまで変化の連鎖が伝わる。 上は、膨大なデータと論文と、その上に構築された仮説とその証明とによって成り立った話が、一般に伝わったものを、私の拙い知識でまとめたものである。 何がいいたいかというと、私は直接分子を見ることはできないし、見たことはない。 しかし何故上のような文章を書くのか? Σ(分子の相互作用→それを観察する何らかの確立された方法→レポート・論文→(本)→私) という情報の連鎖の総和が、上の文を書かせているのである。すなわち、 Σ(・・・) → 私の書いた文。 この→で示したの伝達のどこかひとつが間違っていれば、私の文の説得力や信憑性は薄くなるかなくなってしまう。 More 雑念が沸いたのでさっさと片付けてしまおうと思う。
日本語で「客観的」と言う場合に、英訳すると objective よりも impersonal としたほうがよい場合が多いように思う。また、「客観的」と言う場合に、ほぼ常に、複数の主体による認識の一致、が暗黙の了解になっている。少なくとも、ひとりだけの認識では「客観的」とはされない。それに対して、「客観的(objective)」の場合は、主体が(自己とは違うものとして)客体を認識すればよいのであり、主体の数は原則問題ではない。なにかについて客観的(objective)に評価する場合に、主体と客体が別なものであるとの認識があればよいのである。実際、客観的真実は皆に見えるとは限らず、極端な場合ひとりにしか見えない場合もあろう。 完全な客観性、問うのも、訳し分けると分かりやすいかもしれない。すなわち、perfectly objective とするのか、perfectly impersonal と考えるのかで、ずいぶん理解が異なると思う。どちらにしてもそのアルナシは定かでないが、それを問題にしない文章の書き方、ものごとの観察の仕方は存在すると思う。つまり、根源的認識の議論を避けながら、そのテーマについて議論することは可能である場合があろう。また、便法的に多くの人間の賛同を得たいのなら、意見の分かれそうな部分は議論の対象としない書き方のテクニックがある(アメリカ流の論文作成術とか)。j完全な客観性のアルナシは、どうしても哲学的に突っ込んだ議論をしなければならない場合のみに問題にするのが良いだろう。 いつでも客観性の性質について原理的に突っ込んだ議論をしなればならないということは、あまりない。健全な近似は、二人以上の人間の認識の交換に原理的に不可欠である。気持ち悪いかもしれないが、それが自分の客観性と相手の客観性とは異なることを前提にする便法の習得も、哲学的思索には欠かせない。えらい哲学者の思想もみな違うし、自分のそれとはまた根源的な問題で意見を異にするかもしれない。しかし、それこそそれは永遠のテーマなのであり、違うからこそ価値がある。自分の言葉遣いしかできない人間を見ると、そうおもうし、自分もその種の人間であるので、余計反省することしきりである。 論文を読んでいると、時々考えがあらぬ方向へ向かう。
命題:「データが語る。工学論文の文章部分など真剣に読み書きしなくても、データさえしっかり載せていれば伝わる」 はたして真か偽か。 私の答えは偽である。 確かに言語が伝えるものは、英語であろうと日本語であろうと言語であるが故の原理的な限界もある。しかも、工学論文の文章は上の命題を掲げるような研究者によってかかれることもあるせいか、原理的限界を云々する以前に大変読みにくいものが散見される。 しかし、データは何も語らない。 More 日本語で読んで書く。
当たり前のようで、実は当たり前でない。 このブログは日本人が日本人に向けて書いており、外国人の読者を期待して書いているわけではない。ここで英語で書いたりすると、その言語の選択自体がひとつのメッセージになってしまう。 Facebookの投稿は基本的に英語で。日本語で書くと「日本語書いた」という付加的な意味がついてしまう。すなわち、「このつぶやきは一部の友達のみが分かればよい」との意思表示である(ときどきやる)。つぶやきという独り言に近いコミュニケーションだが、日本語が分からない人がいる場での言葉は使い分けをきちんとしたい。 学校での活動の読み書きは、大部分英語である。会話にしても、今のところほぼ机にいるので、下手をすると隣の席のインド人留学生としか会話しない日もある。そして中途半端な語学力なので英語⇔日本語のスイッチの切り替えが難しい。 More
東ティモール店にみえた、疲れて帰宅した寒い部屋。
先日、外国から帰ってきた同僚が、「彼ノ国ノ人民ハ総ジテ日本ヲ好マズ。個人トシテノ日本人ヲ厭ハズ、只日本国家ヲ憎ムモノナリ」と話した。
実際そうであるとおもう。私にもその国出身の友人知人は少なくないが、日本国家を好む者はゼロである。しかし、彼らは一般に、日本発のアニメや漫画等の文化は大好き、日本旅行も好き。もっとも日本人と付き合うのは金輪際ごめんだよ、みたいな感じの人なら、私と交際することもあるまいが。 で、わが身を鑑みると、 国家とか政府のレベルで好きな外国はないが、いずれの国の文化も人間も好きである。 というスタンスに落ち着く。「彼ノ国」の人々と同じだと思う。 で、祖国日本について。 国家としての日本とか、政府を好きだということはない。むしろ嫌いかもしれないが、そういう統治機構は必要悪の類だと思っている。なくなると困るし、便利でもある。日本文化や日本人については、好きも嫌いも所与のものとしてわが身の一部もであるため、愛憎愛半ばといったところだろうか。 愛国心を持てるか、とは、自分の育った環境と、それによって構築された自分自身を愛せるかということだろう。よく引き合いに出されるアメリカの愛国心だが、それがどうやって醸成されるかは、体感してみないと分からないだろう。そして同じレベルで日本に応用できるかどうかははなはだ疑問であるし、その必要も疑問である。 アメリカ人が強烈にアメリカを愛しているレベルで日本人に愛国心を植えつけるためには、 ことあるごとに、政治家が「アメリカは偉大だ、自由世界のリーダーだ。われわれはアメリカ人なのだ!!」と叫ばねばならない。卒業式の演説で、留学生が多くいる前でも来賓が「まずアメリカを第一に考えなさい」とやらなければならず、外国人留学生がアメリカを褒めたときも「イエス・アメリカ・イズ・グレート」とさらりと言ってしまう神経が必要である。 別にそれが悪いことだとは思わないが、自画自賛の自己主張の強い人間(ステレオタイプとして描かれる戯画的アメリカ人を想像されたし)を、ことさら嫌うのが日本社会である。現実として、そういう社会風土を根本的に改宗してしまわないかぎり、アメリカ式の愛国心は日本社会に根付かないだろう。 外国人に日本を褒められて、 「いや、しかしソレガ日本(人)の悪いところでもあるんですよね。。。まあ、よしあしですよ」 とやってしまう日本的愛国心の発露ではあるまいか。 司馬遼太郎に『空海の風景』という小説がある。空海の人物に迫れないまでも、その周りの風景くらいは描きたい、という気持ちで書き始めたという話だ。
神童というのはどこにでもいるかもしれない。しかし神童を天才として昇華成立させる条件はなんだろう?空海のサクセスストーリーを通じて、司馬遼太郎は常にそれを意識してたような気がする。 More
アメリカの有名なアニメ。過激なことで知られる。
たとえばこんな話。 Whale Whores http://www.southparkstudios.com/full-episodes/s13e11-whale-whores よく言われることかもしれないけれど、こういう「不謹慎」な内容は、日本社会は受け入れない。実際、日本で放送されていないエピソードも少なくないらしい。さすが表現の自由の国である。。。こういう「ジョーク」を、笑えるかどうかは文化の個人の差というしかないが、私としては結構好きかも知れない。ミもフタもないブラックな人間性を描いてこその風刺漫画である。 なるほどここでは日本人は名指しで馬鹿にされているかもしれない。しかし、あからさまに荒唐無稽なキャラクターとして描かれており、同時にこういうことをちょっとでも考えているアメリカ人自身も同時にネタにしている社会風刺であるとも取れる。舞台になっているのは、アメリカ社会なのである。 Chinpoko Mon http://www.southparkstudios.com/full-episodes/s03e10-chinpoko-mon も、おススメ。 「不謹慎」と怒るのは、まさに「不謹慎」というか、大人でない気がする、というと、アメリカ的思考法なのだろうか?
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